4日目・色々と、飛ばしすぎ

西漢高速公路→→漢中市博物館→→陝南武侯祠→→武侯墓→→帰路

西漢高速公路/山と霧と雨と

上・車窓の秦嶺山脈、下・秦嶺SAこの日はガイドが別の方で、30代前半と思われるLさん(運転手も別の方に変わったのですが、お名前伺ってなかった)。自己紹介が済んだ後にLさんが発した言葉は「漢中の天気予報調べました。雨だそうです」。小雨ではなく、キッパリと『雨』。やっぱり雨か…。なんとなく3年前の記憶が蘇る私。秦嶺の山の中で、6時間缶詰になったっけ。。。

その秦嶺山脈をぶち抜いて、2007年に開通したのが『西漢高速公路』。陸路だと、従来は宝鶏を経由しないとならなかったのが、高速道路の開通により日帰りすら可能になったという、すごい文明の利器です。なにせ、西安−漢中間には航空便が就航している程で(所要時間は40分程)、近くて遠い街同士でした。

Lさんの解説によれば、四川大地震の救援の際に、この西漢高速公路が大変役に立ったのだとか。昨年開通したばかりということで、道路もサービスエリア(上画像の下。秦嶺SA)も綺麗でした。SAのトイレには清掃係が常駐してるし!

道路の周囲には、急峻な山々とそれにかかる靄&霧、その向こうには今にも降りだしそうなグレーの空(上画像の上)。あまりにも険しい山が続くので、きちんとした装備も持たずに越えようとした夏侯覇すげぇと改めて感心(?)してしまいました。秦嶺と聞いて真っ先に思い出すのは夏侯覇です。。。

高速道路とはいえ山越えルートなため、区間によっては、最高速度が普通車60キロ・大型車50キロという制限があります。漢中−宝鶏ルートもそうでしたが、輸送幹線道路でもあるため大型車比率が非常に高かったです。しかも過積載……高速道路なので、あからさまには積み過ぎてませんでしたが…。そして川ナンバー(※)の車を見かけては感慨にふけり、「成都580km」「広元200km」の行先表示を見ては感慨にふけり。我ながら蜀末脳炸裂。ちなみに中国の高速道路の看板も、日本と同じく緑地に白字です。

※川ナンバー
四川省登録の車であることを表す。省名や市名から1字を取っていて、陝西省だと「陝」、吉林省だと「吉」、北京市だと「京」。長距離輸送車も多く、はるか遠い省の車もこの辺りをよく走っています。遼寧省の車も見たなぁ。

上・漢江を望む、下・トキのオブジェ途中には漢江を見渡せる見晴台兼パーキングエリアも。Lさんが川面近くを飛ぶ鳥の一団を指して「トキです。この辺りにはたくさんいます」と教えてくれました。トキの実物を見るのはもちろん初めて。右写真だと、遠すぎて全然分からなくなってますが;

綺麗なので眺めていましたら、自分のそばに「命は大事に!飛び降りるな!(意訳)」と書かれた看板があるのに気付きました。。。 右写真下の置物には、「東方宝石、朱鷺之郷」って書いてあります。トキって白いんだー。

脳内妄想を爆発させながら来たので(あくまで脳内にとどめてます、もちろん;)あまり時間は気になりませんでしたが、気が付けば西安から漢中市の中心部まで車で約4時間かかっていました。漢中インターチェンジ(中国語だと「漢中互通式立交」)で高速道路を下りると、そこは南鄭県。また脳内妄想爆発。 漢中に着いたあたりで、雨が降り始めました。

今度もまた、雨。

余談メモ。

漢中市内で、前回お世話になった先生方が所属していた旅行会社の社屋前を通りかかる。皆さん今はどうしてるんだろう。懐かしい。

西安−漢中ICの高速料金:150元だったと記憶。

漢中市博物館(古漢台博物館)/壁の中

漢中市博物館古漢台は、劉邦がまだ項羽に後れをとっていたころに漢中に置いた政府の跡地です。漢中で力を蓄えて、後々の逆転につなげたわけですね。結構広い敷地があります。

で、前に来たときはは気付かなかったのですが、ここは『古漢台にある博物館』という位置づけだったんですね。なので、基本的に漢スポット。

だというのに、ここに来たからにはやっておきたかったことが、『張嶷の墓石が見たい!』。…いや、蜀“漢”なので、漢から外れてるわけではないのですが、劉邦から時代が離れすぎかなと。

前回この博物館に来た時は、この墓石の存在を知らず&気付かず、帰国してから現地で買った本を読んでいたら、張嶷について「墓は漢中市南鄭県、漢中市博物館に墓石がある(意訳)」と書かれているのを見つけて愕然としていたという。

正直に書けば、他の展示品を見つつも、張嶷の墓石を探していた私。

それなのに、あらかた見終わっても見つからない! そろそろ出口に向かおうかという頃、門の横に、奥に入っていくときには見えなかった石碑群を発見! どうして最初は見えなかったかというと、入ってきた時には背を向ける状態になる…というのもあるのですが、なんといっても、その石碑が皆、壁に埋め込まれていたからですよ。

張嶷墓石本来建てられた場所でもなく、碑林のように『碑』としての姿を残してもおらず、キャプションさえ付いておらず、壁の中の石碑の数々に寂しいものを感じつつ近づいてみれば、左隅に「漢盪寇将軍張嶷之墓」と彫られた碑が(右写真)。
これかー!

墓石の右側に「□国初年元月孟春」(□はいまいち字が判読できません…)の年号が見え、左側に小さく「調署南鄭県知事白河柴宋愚所立」とあります。

墓石を博物館に持ってきてしまって、南鄭県にあるという張嶷墓の本体は、今どういう状態になっているのか??
墓本体の詳細な位置は、調べてもよく分からず。当初の目的を達成したものの新たな疑問を残しつつ、それでも脳内テンションは高く。高速道路を下りて南鄭県を通ってきたので、「墓の近くに行った!」と思い込むことにします。

そして、雨は完全に本降りになってきました。

余談メモ。

張嶷墓石の隣には墓誌らしきものも埋め込まれていたのですが、全体的に字が薄くなっているうえに傷だらけ。「漢」の字が見えるところもあるものの、正直読めません。

張嶷墓の本体の位置については、「南鄭県」のほかに、「柏郷街」あたりがキーワード。

入場料:30元のところ、9月は15元に値引き中と言われました。

陝南武侯祠(勉県武侯祠)/Just a moment, please!

陝南武侯祠再びやってきました陝南武侯祠。

263年の創建で、数ある武侯祠の中でももっとも古いものです(もちろん建物は建て替えを重ねていますけども)。知名度においては成都の武侯祠にかないませんが、人の少ない分、静かで、祀られているという風情がより感じられます。てか、263年! リアルに蜀が存在して、姜維たちが生きていた頃ですか!

諸葛亮が劉備から貰ったとされる石琴が置かれている楼の外壁に、『空城の計で司馬懿らを退ける孔明』が描かれた絵があったのですが、これが新しい絵に変わってしました。前の絵は傷みが出ていたので、取り替えたんでしょうが…古い絵はどこへ? 以前の、微妙に得意げな顔をした孔明がいい味出してたんだけどなぁー。。。

その楼のさらに奥に、蜀臣像が置かれている場所があります。配置は成都の武侯祠と同じく、左右に文官・武官が分けられています。その配置はこんな感じ。ともに手前入口側から。

武官像(東廂房)
馬忠 → 馬岱 → 張嶷 → 王平 → 姜維 → 李恢 → 魏延 → 黄忠 → 馬超 → 趙雲
文官像(西廂房)
李福 → 楊儀 → 許靖 → 費イ → 劉巴 → 董允 → 蒋琬 → 呂乂 → ケ芝 → 法正

趙雲と法正が一番奥、つまり武侯祠本体の諸葛亮廟に一番近くなります。全員の画像は別記事にまとめました

成都武侯祠とやや顔ぶれが違うかな? 人選の基準は、『諸葛亮に従ったことがあるor諸葛亮に従って北伐に参加している(というか曹魏と戦っている)人物』とのこと(意訳)。早くに亡くなっていたり、逆に傅僉のように活躍時期の遅い人物は入らない…ってことですか。あと、漢中に縁があると入りやすいのかな?

で、姜維像の前には今回も花が供えられ、参拝用の座布団まで設置されていました。やはり人気高いのか。でも、姜維像を前にして感じたのは微妙な違和感。「わー、姜維像だ!…あれ?」というような。その時ははっきりした答えは出なかったのですが、帰国してから写真を見直していて気付きました。


まず、2005年に訪れた時の姜維像(↓)。

2005年の姜維

次に、2008年現在の姜維像と、李恢像の画像(↓)。

左・2008年の姜維、右・2008年の李恢


げえっ! どう見ても3年前の姜維と今の李恢が同一人物だあ!


違和感はこれだったのですね…。

以前訪れた時に撮ったのが残念ながら4枚(姜維、張嶷、王平、董允)しかないのですが、現在のものと照合してみましたら、さらに3年前と現在で、王平と張嶷が入れ替わっていましたorz 今の姜維像が3年前は誰の名前だったのか、上記の4枚からは判断できないですが…。ちなみに董允は変わってませんでした。

もしかして、気が付かない方がよかったかもしれない事を気が付いたのかなー…。恐るべし。個人的な感覚では、今の姜維像の方が『それっぽい』気がしますね。

メモ。

四川大地震では漢中も大きい揺れがあったそうで、武侯祠の建物にも大きくはないものの被害があったそうです。蜀臣像のある2つの房も、壁がひび割れていたり剥落があったり…。

入場料:12.5元。微妙に値上げされています。


武侯墓/妄想爆走

上・武侯墓入口、下・定軍山武侯祠からの移動中、馬超墓の前を通過。ここも懐かしいなぁ。歩いて行ける距離だったんですよね。

武侯墓も静かで落ち着いた場所です。公園のようなたたずまい。池にはなぜかスワンボートがあったりします。雨のためか乗っている人はいませんでした。

改めて武侯墓本体に行き、ここでも「いつもネタにしてすみません」と心の中で唱えてお参り。熱きモデラー魂なフィギュア群も眺めて仕事っぷりを堪能して引き揚げることにしました。しばらく車で走ってから、定軍山を遠くから眺めてみたり(左写真)。

定軍山といえば、有名なのはもちろん夏侯淵を破った戦いでしょうが、後になって征蜀に来た鍾会が定軍山で孔明の夢を見たり墓参したりby演義。正史でも「武侯墓の祭祀をさせた」ってあるなぁ。263年秋ってことは、武侯祠の完成の前か後か微妙なタイミング。完成前でも、建物を造ってるところを見ていそうな気も…と別の妄想が入ってきています。
つくづく末期脳です、二重の意味で。

定軍山を撮っている私のそばに、白ヤギがいました。。。

余談メモ。

武侯墓のトイレが水洗でビックリ! この辺まで来ると、排泄物の落ちた先は即家畜のエサって形式のトイレもあるだけに。

入場料:15元


帰路/渋滞危機一髪

上・夕食の餃子、下・城固料金所定軍山を眺めた後、褒斜桟道に行く予定で車を走らせていたドライバーさんが、車のスピードを緩めて止まりました。前にはトラックばかりが並んだ大渋滞。Lさんが窓を開け、通行人に事情を尋ねてみたところ、「この先の橋に問題があって通れない。1時半からこの状態。通れるようになるのは9時半頃」とのことでした。

現在午後5時。橋の問題が何なのかはさておき、トラックばかりの大渋滞、雨の中。カーブと対向車こそないですが、どこかで見たような光景。Lさんが「どうしましょうか?」と我々に尋ねたので、「諦めましょう」と即答。後続車が来て抜け出せなくなる前に、Uターンして脱出しなくては!

以前、漢中から宝鶏へ向かう道で大渋滞に巻き込まれて、雨と霧の中で夜を迎え、気温が下がって寒いところを6時間も缶詰状態、後に人生最大の風邪を引いた記憶がなければ(詳細は、05年夏旅行記5日目に)、すっぱり諦めずに多少は未練を残したかもしれません; あの辺りの大渋滞は日常化して規模も大きい分、慣れない者には本気で怖い。断言してもいい、絶対9時半には通行再開しない

そんな訳で、行き先を1つキャンセルし漢中市街地へ。

西安へ戻るのも長丁場になるので先に夕食です。餃子店で餃子・餃子・餃子。。。 美味しく、お腹いっぱい食べました(上写真の上。右奥がMさんの餃子、右下が私の。これで1人前)。少しだけ残してしまったら、またLさんに「ちょっと残ってますね」と突っ込まれました。この方はそういうキャラなのかな?

後は来た道を帰るだけ…と思いきや、高速道路に入る前に車のガソリンメーターが限りなく空を指していることに気付きました。ガソリンスタンドを探すドライバーさん。1つあった…と思ったら営業してない! なんという、ありがちスパイラル。我々が施設に入ってる間に給油しなかったのかな?と思ったものの、市街地を出るとガソリンスタンドを探すのにも一苦労かも。

城固IC前のガソリンスタンド結局どうしたかといいますと、そのまま高速道路に入り、途中の城固ICで下りて、料金所そばのガソリンスタンド(右写真)で給油しました。中国のガソリンスタンドは薄暗く、明かりがついていても営業中とは限らないので、近寄ってみないとやっているか分からないのですが、ここは24時間営業だった! よかった!

給油してる間に車の外に出て、とっぷり暮れた景色を眺めてみました。すっかり夜。車通りも少なく、周囲に民家もまばらで、営業が成り立つのか心配になるくらい静かなガソリンスタンドでした。国営で営業面は大丈夫でも暇すぎなんじゃ…。さらに、ガソリンスタンドのトイレが水洗だったので、またビックリ。高速道路が新しいので、周辺施設も新しいのかな?

給油が終わると高速道路に戻り、あとは一路西安へ。

今更気付きましたが、高速道路に照明がない! 道路が真っ暗! しかも雨で見通し最悪!
これでカーブや勾配だらけの秦嶺越えに挑もうっていうのですから……速度もあまり出せず、ドライバーさんはとても運転しづらそうでした。それがお仕事とはいえ依頼したのは私なので、とても申し訳ない気分になりました; 本当にお疲れ様でした。。。

ホテルに着いたのが夜11時半くらい。帰りは5時間くらいかかったかな? 非常に強行軍でしたが、濃くて面白かったから後悔はしていない! …でも、遠いところまでお付き合いいただいた皆様、大変スミマセン;

そんな感じで、絵日記4日目は→コレ。


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