5日目・功績は誰が語る?

青龍寺→→大雁塔→→碑林→→永泰公主墓→→乾陵→→夜

前フリ

1月1日、新年好!
…なのですが、中国では旧正月(2005年は2月9日)メインでお祝いするため、静かな新年になりました。年越しはそこそこ盛り上がってたのに、年が明けたら急に静かに(笑)。それでも、3が日は休みなんだそうで……それって、旧正月にも休むから日本より休みが多いってことですかね?

青龍寺/日本語見参

空海紀念碑青龍寺は隋代に創建され、唐になってから青龍寺という名前になった寺。ここで有名なのは、空海が留学中に修行した寺…ということでしょうか。ここで密教を学び、帰国後に真言宗を開くわけですね。唐末以降は廃寺になってたのが20世紀になって発掘され、現存しているのは再建されたものだそうです。当時の建築様式を模しているのだとか。

空海ゆかりの寺ということで日本からの出資もあったそうで、「空海記念碑」というのもあります(左画像)。中国では「紀念」と書くところを「記念」なのが日本様式なんですとか。さらには日本から大量の桜を寄贈されたらしく、花の季節には壮観らしいです。

大雁塔/西遊記世界のお土産

大雁塔大雁塔は慈恩寺の境内にありまして、慈恩寺は唐の高宗が母(文徳皇后。太宗の皇后)を供養すべく作った寺だそうです。後の戦乱で焼けてしまい、当時の姿はとどめていないのですが、修復改築拡張の結果、大雁塔を含めた一大施設のような感じになっているようでした。記念館とか博物館とか植物園とかあるらしいですが、ツアーの宿命で…入ったのは大雁塔だけです…。

大雁塔は玄奘が天竺から持って帰ってきた経典を納めるために作ったものらしいですが……それだけのためにしてはデカい建物です…。スペース余ったりとかしなかったんでしょうかと(笑)。7階建てです。創建時は5階建てだったらしいです。修復改築拡張の際に増えたのかな?

大雁塔から市街地を見る建物内は一般公開されてまして、最上階まで上がることができます。階段です。見た通りの縦長建物なので中は狭く、階段も急です。ひたすら踊り場から景色を楽しみながら上がるのが吉かと。段数は250段くらい…だったかな? 左画像は、大雁塔の最上階から見た西安の街並み。道路がきちんと直線・碁盤の目なのがなんとなく分かります。天気が薄曇りで遠くのほうが見えないのがちょっと残念。

ちなみにガイドさん、「私は下で待ってます」と言って、大雁塔の中には入ってきませんでした。きっと長い階段を上り下りするのがイヤなんだろうなぁと(笑)。何回も何回も来慣れてるプロなので、珍しさとかないですもんね。


碑林(陝西省博物館)/三たび末期トリップ

さて、碑林。
文字通り、石碑や碑文が数多く納められているところです。実は陝西省博物館の一部だったりするらしいですが、例によって見たのはここだけ(別にある展示室では、殷周から宋あたりまでの展示があるらしいんですけどね)。書の世界では有名な顔真卿や欧陽詢、王羲之などの筆跡も残されており、書マニア必見の場所でもあります。
出版・印刷業界の人なら「これがあのフォントの元かー」と思ってみるのも面白い場所です。隷書体・楷書体、いろいろなフォントの元祖がここで拝めます。

ケ艾の碑解説文ここの個人的最大のハイライトは、「ケ艾の祠は本当にあったんだ!」。

なんとケ艾の祠に関することを書いた石碑が展示されていたのです。

ケ艾の祠にまつわる民話では、祠は山東の方だったと思うのですが(資料が手元になくうろ覚え。なぜ借りたときにメモらないんだ私;)、展示されてた石碑は、オリジナルは陝西の蒲城県にあったもので、建立されたのは前秦の苻堅の時代・建元3年(西暦367年)、ケ艾の祠を再建した際に建てたもの…らしいです。解説を誤読してたらすみません。石碑正面の文字はほとんど剥げたか磨耗したかで、肝心の内容が読み取れないので、もはや頼りはこの解説文のみ。その解説文を撮影してきたので置いておきます。英文と比較してみても面白いかと。


永泰公主墓/ナマ唐

永泰公主墓施設唐の永泰公主(李仙宦E685−701)は、中宗の娘で武則天の孫にあたり、まだ10代のうちに亡くなった人です。えらい早死にしてますが、兄の懿徳太子(李重潤・682−701)とともに武則天の不興を買って死を賜ったとされています。

墓は本物、唐代の実物とガイドさんに言われ、必要以上に脳内トリップ(爆)。「おお、これが!」となるじゃないですか、やっぱり。思わず床を触って喜ぶバカが1名……(もちろん私。触っていいものにしか触ってないですと言い訳)。中には壁画(展示されてるのは模写でしたが)、最深部には棺桶もありました。

発掘当時、この墓の主が永泰公主だとすぐに分かったのは、デカい墓誌に「大唐故永泰公主誌銘」と書いてあったからだそうです。死因は妊娠時の何か(「何か」は、ガイドさんはしっかり言ってたのに忘れてしまいました)と墓誌には書いてあったけど、遺体を調べたら妊娠してた形跡はなかった、やっぱり武則天が(以下略)というガイドさんのお話でした。当時書かれたことが史実とは限らない?という例。

墓の内部は撮影禁止なので、これは施設の外観の画像です。墓の坑道はわりと長く、地中に潜っていく感じなので墓の中は暖かかったです。

墓の中にあった副葬品は、近くの懿徳太子墓や章懐太子(李賢・651−684)墓の副葬品などとともに乾陵博物館に納められているそうです……見たかった!


乾陵/長い長い道

乾陵乾陵は、唐の高宗と武則天の合葬墓です。
武則天は皇帝になってるのですが、ここには高宗の皇后として葬られてます。画像の奥に見えている山が、その乾陵。ここの見どころは、陵自体よりもそこに至る参道(神道というらしい)に立ち並ぶ像や石碑でしょうか…。

武則天の功績を称える「無字碑」は、文字通りなにも書いてない碑でして、敢えて何も記さなかったそうです。文章であらわすことができないほどのすごい功績である…と暗に言ってるらしく。

また「六十一賓王石人像」という61体の石人の像は、葬儀に参列した周辺少数民族の王たちだそうです。像の背中に名前が書いてあったり。本当に61体あるので壮観ですが、全員の首から上が破壊されてしまっているため、かなり独特の雰囲気を醸し出しています。ちなみに無字碑もこの61体の石像も、当時から同じ場所にあるので、雨ざらしの触り放題。ところどころ風化が…。

長い参道ほかにも長い長い参道にある守護像とか見どころはあるのですが、この参道の長さが既にスケールでかすぎ。本当に長い。日本の古墳ではこうはいかない(笑)。
左はその長ーい道の画像。実はこれ、真ん中辺で撮っているので、本当はまだ半分ほどです。奥に見えてる四角いものは、見張り台か狼煙台のようです。遠目から見る武則天のバストなんですとか。これだと結構貧……いえ、何でもありません。

余談メモ。

永泰公主・懿徳太子・章懐太子の墓は、この乾陵の副葬墓という位置付けになってます。


夜/意思疎通OK?

夕食はホテル(宿泊先ではない別のホテル。名前を忘れました)でしゃぶしゃぶ料理でしたが、他のツアーの日本人客と一緒でした。おお、日本語の嵐だ…。食事中に他のテーブルにいた家族連れのお父さんがおもむろに立ち上がり、「すいませーーん!」。たぶん、係の人も日本人ツアー客の来るレストランだからその言葉を言われたときは呼ばれてるんだと分かるんでしょうね……係の女性がやってきました。続けてお父さんは「スープ」と鍋を指差し、「少ない」ともう片方の手の指で汁が減ったぞ・の仕草。続けて「OK?」。係の人はうなずきました。おおお…、たった4語・しかも中国語を一言もいわずに意思が疎通したぞ! そういうのがありそうな場面だったとはいえ、すごいやー。

この後ホテルに帰り、売店で茶杯と聞香杯のセット(1セット100元)を2つ買うのですが、この話には続きが。それは次の日に。


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