◆鍾会って?◆▼人生のあらまし ▼皆様とのお付き合い ▼皆様からの評判字(あざな)は士季。225生〜264没。 蜀を滅ぼした魏軍の指揮官をトウ艾とともに務め、さらには姜維が最後に手を組んだ人物。魏蜀末期を語るには外せないお方。 ▼鍾会・人生のあらまし 頴川郡長社県(今の河南省)の人。鍾ヨウの末子(注1)。母親の名前は張昌蒲。 女性の名前が残されることのない時代に、なぜ母親の名前が伝わっているかというと、鍾会が母親の伝記「鍾会母伝」(注2)を書いたからだったりします。正史を見ると、彼は、とにかく何か書いている…。数々の論文をはじめ、蜀遠征時の民への布告文とか、姜維降伏後の上奏文とか、さらには対陣中に姜維に手紙を書いてたりとか(返事はもらえなかったらしい)、まあ、よく書く書く。しかも長い。 注1:鍾ヨウ75歳のときの子供。ほとんど孫です。 注2:その中で鍾会は「私は幼少の頃から、青か紺の衣服しか着せられなかった」と書いている。この伝記、「母親をよく言うために、いい加減なことを書いた」と後世の歴史家にツッコミ入れられ放題。 そんな彼は、幼い時から「賢く早熟」「並外れた人間」と言われ、ひたすら勉強に励んできたとのこと。 15歳の頃までには、勉学の必須アイテムといわれる書物はほぼ暗記し、成人してからは草書・隷書に巧み、論理学にも精通(注3)、「鍾ヨウの末子は凄い物知りだ」ってことで、20歳のころには朝廷に出仕するようになり、高官を歴任しまくるという……要するに、挫折に縁のない、エリート街道一直線のお坊ちゃまなのだった。 注3:鍾会作の論文…、「道論(道家ではなく論理学の説)」「周易無互体論(易の互体を否定する説)」とか、「才能と本性の同異」とか…、題名を見ても私にはさっぱり内容が想像できません…。学術的に優れたものだったらしく、荀ギ(荀イクの息子)が反論の論文を書いてたりしました。が、隋の頃までには散逸してしまったようです。 その後、司馬昭(司馬懿の息子)の覚えもうるわしく、カン丘倹と文欽の反乱では参謀として功を立て、「功績をほこる様子を見せた」そうです。「ふふん♪」ってカンジでしょうか? そんな様子だったので、当時付き合いのあった傅カに「きみは野心がその器量より大きくて、功業をなしがたい。慎み深くしなければならぬぞ」と忠告されたらしい。 その後の諸葛誕の反乱で、やはり参謀として功を立てたときには、素直に傅カの忠告を受け入れたのかどうか謎ですが、恩賞を辞退。司馬昭に「その言辞・心情は誠意あふれる」と褒め称えられます。恩賞を辞退しても、昇進はしているんですけれどね。司隷校尉(警視総監みたいなもの。気に入らない相手とかの罪状捏造なんかもやってたようで、後でケイ康も鍾会にデッチ上げ喰らった)に昇進して中央官庁から離れたものの、その後も政治の変更点や賞罰に関することは、全部取り仕切っていたそうで。出世街道まっしぐら! 司馬昭の覚えのうるわしさ具合は、「親愛の念と待遇は日に日に高まった」だそうで。諸葛誕の乱後も絶賛してましたし、この時期には張良(前漢の高祖・劉邦に仕えた謀臣)に例えられたりもしてました。 さて、いよいよ、蜀を滅ぼすための遠征が決定します。蜀を攻めるのに、なぜか軍船を作り出す鍾会。「蜀に行くのに何故船?」と怪しむ司馬昭。鍾会の答えは「呉を牽制するためで、蜀討伐が終われば、本当に呉遠征に使えます」。これには皆納得したものの、演義ではこの時点で、司馬昭に「こいつ、そのうち背くんじゃないのか」と思われ始めます。 今度こそ本当に蜀遠征! 征西将軍のトウ艾と雍州刺史の諸葛緒、鎮西将軍の鍾会という顔ぶれ。それぞれが作戦に従って軍を進めましたが、姜維の足止めを命じられた諸葛緒がこれに失敗、その後に鍾会の軍と合流します。鍾会はそのまま諸葛緒と一緒に剣閣へ向かったのですが、ここでやってくれました! 諸葛緒の率いる軍勢を自分の指揮下に置こうと、「諸葛緒はおじけづいて進軍しようとしません」と内部告発!(ただ、諸葛緒も、合流したあとに姜維に敗戦したりと、「本気でやってるの?」とツッコまれても反論できない働きぶりだった様子)。可哀想な諸葛緒は、囚人護送車に乗せられて強制送還となってしまいました…。 そして、狙い通りに諸葛緒の軍勢は鍾会の指揮下に入ったわけです。が、諸葛緒はもともとトウ艾の指揮下。トウ艾の断りなしに諸葛緒を送還してしまったものだから、当然、トウ艾は鍾会の越権行為に激怒。息子のトウ忠にたしなめられ、なんとか平静を装うものの、「蜀攻めの手柄は俺がいただく!」と固く誓ったのでした。 鍾会が剣閣で姜維と対峙しているうちに、決意を強固にしたトウ艾は山越えの回り道を敢行。成都を陥として劉禅を降伏させ、鍾会の頑張り(?)も空しく、トウ艾は戦功第一の座をゲット。さらにトウ艾は独断で蜀の新人事まで行ってしまいます。劉禅降伏後の蜀の安定を考えての行動でしたが、見ようによっては危険なこと。しかも、鍾会にとって面白かろうはずもなく…。 劉禅の命令で魏に降伏することになった姜維は、トウ艾と鍾会を殺して蜀を取り戻そうと考え、鍾会は鍾会で、蜀を取って自立しようと考え、利害の一致した鍾会と姜維は手を組んで、2人にとって邪魔なトウ艾を排除することに。鍾会は、独断で人事を行ったトウ艾を「反逆の様子あり」と告発、それを受けた司馬昭もトウ艾の不遜な発言を苦々しく思っていたところに(注4)、トウ艾謀反の噂も流れます……鍾会が流した噂なんですけれどネ! ついに司馬昭はトウ艾捕縛を命じ、トウ艾はあっけなく逮捕。背く気がなかったから、逆に、素直に捕まったみたいです。話せば分かってくれる…みたいな感じで。 注4:トウ艾が普通に書いた上奏文とかを手に入れて、傲岸不遜な表現に書き換えて司馬昭に送り直してたらしい。鍾会は人の字を真似るのが上手かったそうな。さらに、司馬昭からトウ艾宛ての文書も工作していた様子。気の毒なトウ艾…。 トウ艾の排除に成功し、姜維の次なる手は、鍾会に独立をそそのかすことでした。自分の思いを見透かされた(?)鍾会は、素直に姜維の言葉に乗ってしまうんですな(注5)。「司馬一族の専横は目に余る」とか、他にもいろいろ理由をつけて兵を長安に向けようとするも、もちろんそれに反対する武将たちが多く、彼らを監禁しておこうとするんですが、逃亡者が出て策が漏れ、逆に自分達が攻められることに…。鍾会も姜維もそこで殺されてしまいます(演義では、姜維は自害したことになってます)。 注5:鍾会さん、「失敗しても、(蜀を確保して)劉備くらいにはなれるだろう」と言ったとか言わなかったとか。 ↑戻る ▼鍾会・皆様とのお付き合い かなり切れ者だけど最期は「?」な鍾会ですが、性格の方も「…??」な部分が多かったようです(笑)。 1.対・夏侯玄 夏侯玄は鍾会が嫌いだったのか、夏侯玄伝に「夏侯玄は彼と交際しなかった」とわざわざ書いてありまして。その夏侯玄が司馬師に謀反の疑いで逮捕されたとき、取り調べを担当したのが鍾会の兄の鍾毓でした。その立場を活用して、鍾会は夏侯玄に会いに行くんですな。そこで「夏侯玄になれなれしい態度をとったが、夏侯玄は受け付けなかった」そうです。確かに、「何しに来たんだお前は」って状況ですねぇ。面白いのがこの後で、引用します。 「夏侯玄が獄舎にあったとき、鍾会はつけこんでなれなれしくし夏侯玄を友達扱いしようとした。夏候玄はきっとなっていった、『鍾君、どうしてそんなにおしつけがましいのだ。』」 自分に好意的でない、しかも年長者に向かって、「なれなれしい!友達扱い!!押し付けがましい!!!」の三段攻撃(笑)。 2.対・ケイ康 老子・荘子を好み、儒学・道家にも詳しく、文人として有名だったケイ康は、「竹林の七賢」の一人。彼の名声を聞きつけた鍾会はケイ康を訪ねます。が、鍾会に対してケイ康の反応は冷たく、挨拶すらしない有様。このことを鍾会は根に持ちます。その後、司馬昭がケイ康を招聘しようとするのですが、ケイ康はこれを断ります。その理由に「世俗が耐えられないのであって、司馬氏を無視しているわけではない」という意味のことを述べまして、これに司馬昭が不快感を表したところに、鍾会登場! この機にケイ康を除くよう進言します。その意見が採用されたのかどうか、ケイ康は処刑されてしまうんですな。鍾会に恨まれると怖いことになるという、一つの事例…。 3.対・傅カ 傅カは「見識・器量ともすぐれた名士」と言われるほどの人物。彼は夏候玄から交際を求められて断り、その理由に「(夏候玄は)その器量よりも大きい野心を持ち、虚名を集めることはできても、現実に通用する才能はない。彼は道徳に外れた人物で、必ず失敗する」と述べています(注6)。が、この傅カ、同じく「器量よりも大きい野心を持っている」と評した鍾会とは仲がよかった様子(しかも忠告までしてる。鍾会も、その忠告を聞き入れたようで)。何故? 傅カは鍾会の得意な論理学に詳しかったので、学問つながり? あと…鍾会の押しの強さに負けたとか? 性格的な評判は最悪の鍾会ですが、それでも友人や付き合いの深い人物はいました。学問つながりが多いみたいですが。やはり論理学に精通し、儒家・道家の説を好んだ王弼とは、若い頃、ともに並んで評判が高かったそうです。あの鍾会(「あの」って何)が、「つねに王弼の高邁な論には感服していた」とのこと。 …学問が絡むと謙虚なようです。 注6:荀ウン伝に、傅カと夏侯玄は交際があったと取れる記述があります。どちらの説も裴松之の注が元で、それぞれ出典が違うので、何とも言えません…。 ↑戻る ▼鍾会・皆様からの評判 蒋済「並外れた人間である(鍾会5歳のとき・注7)」 虞松「博学にして賢明な判断力をお持ちで、精通しないことはございません」 司馬師「本当に帝王を補佐する才能の持ち主だ」 夏侯覇「(鍾会が)朝政をとりしきる場合には、呉・蜀にとって心配な事態となるでしょう」 賈輔「邪悪かつ凶暴で、将兵をことごとく殺そうとしている(蜀での反乱時)」 夏候玄「どうしてそんなにおしつけがましいのだ」 『魏氏春秋』「鍾会の人物鑑識眼も、賢婦の知恵にはかなわなかった(注7)」 傅カ「きみは野心がその器量より大きくて、功業をなしがたい」 辛憲英「事に対処するときに、好き勝手に振る舞います。彼が別の野心を持つことを心配します」 鍾毓「策謀に走りすぎて一貫した態度を取れない男だから、任務を彼1人に任せるのはよろしくない」 …皆さん、鍾会の能力は誉めてますが、性格に関することはメッタ斬り。 注7:正史の筑摩書房刊では、蒋済が「眼を観察すれば、その人間の価値を判断できる」という論文を書き、それを知った鍾ヨウが、当時5歳の鍾会を蒋済に会わせ、蒋済が「並外れた人間」と評価しています。が、別の本では、5歳の鍾会が「眼を観察すれば、その人間の価値を判断できる」と論文を書いた…としています。ここでは筑摩書房刊に準拠しました。『魏氏春秋』が「鍾会の人物鑑識眼」をわざわざ取り上げていたりするので、事実として有名だったということでしょうか。裴潜伝に、鍾会が司馬昭に裴楷・王戎の人物に触れて彼らを推挙する場面がありますし、その方が「賢婦の知恵にかなわなかった」と書く意義があると思いますし。
そこで、個人的な鍾会のイメージ。 「おぼっちゃん」「トウ艾に『今時の若い者は』と思われてそう」「懐き系」「頭いいんだけど、どこかヌケてる部分がある」「なんか変」「詰めが甘い」 余談:「魏書」「蜀書」を見ていると、「鍾会の反乱の際に亡くなった」と書かれている人物が、多いこと多いこと。巻き添えで死んだ人たちにとっては、「しなくていい戦い」だったんでしょうね…。あと、姜維の家族も殺され、鍾会の親族(彼は所帯を持っていなかったらしい)も何人か処刑されました。この時代、しかも名家のお坊ちゃまが独身というのは、相当に変なことです。
余談2:姜維は鍾会を利用しただけかと思いきや、仲は良かったようです。「親密」とか、そういうレベル。姜維からすれば鍾会は弟か息子みたいな年代だし。姜維は長男、鍾会は末っ子だし。 余談3:つまり彼は都会人なのだ。彼から見れば、蜀は田舎に思えたかも(笑)。 余談4:河南省に墓があります。 ◆このページに使用した参考書籍 正史三国志「魏書」「蜀書」(筑摩書房)、三国志人物事典(講談社)、 三国志VIII武将ファイル(コーエー) |