大剣山栄盤嶺は、かつて姜維が剣閣を守備するために砦を作ったところで、剣山のふもとに姜維廟が建てられ、こんな句が記されているそうです。
雄関高閣壮英風、捧出熱心、剥開大胆
剰水残山守落日、虚懐遠志、空寄当帰
四川省剣閣剣門郷で、この句に関して伝わっているお話についてメモ。
前半部(1行目)
そびえる砦の高殿は雄雄しき気概みなぎりて熱き心と猛き肝、たち割りてこそあらわれる
曹操は大将の鍾会と鄧艾を蜀攻めに遣わします(「曹操」なんですよ、なぜか)。姜維は剣門関を守って鍾会を迎撃し、関の中に魏軍を入れさせませんでした。が、鄧艾に背後に回られて成都を突かれてしまい、劉禅は降伏して姜維にも降伏するように命令を出します。それを聞いた姜維と3万の兵士たちは腹立ちのあまり、山上の石をことごとく砕いたため、今でもそこは砂利だらけなのです。
間もなくして、鍾会は鄧艾と息子の鄧忠を殺してしまいます(死に追いやったのは事実ですが、直接には殺してないんですけどね)。姜維は鍾会が大それたことを企んでいると見てとり、彼を利用しようと考えました。鍾会のためを思って…というフリをして、「不満を持っている魏の将軍たちを、祝宴と称して一堂に集め、したたかに酔わせてしまえば一網打尽にできます」と持ちかけます。鍾会が蜀の王になれるように協力するように見せかけ、実際には鍾会の力を削ぐためでした。しかし、この計略は漏れてしまい、鍾会は殺され、姜維は自刎して果てます。
魏の将軍たちは姜維の死骸の腹を裂き、心臓と肝を酒の肴にしようとします。ところが、姜維の心臓は、死んでもなお動き続けていたのです。肝はガチョウの卵ほどの大きさがあり、並みの人間の物とも思えません。これには首斬り人たちも肝を潰し、逃げ出してしまいました。そして真夜中、土地の民百姓たちは放置された遺体を盗み出し、大剣山のふもとにこっそり埋めたのです。
姜維の死に、蜀の人々は涙し、「亡き諸葛軍師は本当に人を見る目があった。こんな立派な人物が、むざむざ殺されてしまうなんて」と心を痛めたのでした。
後半部(2行目)
今に残りし山川は落ちゆく夕日をふところに帰るべしとの母の文、遠志あらばと返しけり
姜維が蜀に行ったのち、姜維が孔明に厚遇されて将軍の地位につけられたことを知った魏は、姜維の母に「息子を呼び戻せ」と脅しをかけました。母親は、姜維をそばに置いておきたかったですし、蜀でどうしているのかも心配だったので、手紙を送ることにしました。が、うかつなことは書けません。下手な書き方をすると、姜維は帰ってくることもできず、あらぬ疑いをかけられる可能性がある…と、母親は考え、手紙を書くのはやめて、小さな荷物をひと包み預け、送ってもらうことにしました。
姜維がそれを受け取って、中を見てみると、手紙は入っておらず、「当帰」という名の薬草が入っているだけでした。姜維は目に涙をためて「当(まさ)に帰るべし。母上は私に帰ってこいと言われるのか」と溜息をつきました。彼もまた母親に手紙を書こうとしましたが、魏の手中にある母親に手紙を書いては、母の命が危ない…と考え直し、母親と同様に、手紙を書くのはやめて、薬草をひとつ言付けました。
姜維からの返信を受け取った母親が包みを開けてみると、中身は「遠志」という薬草でした。「あの子は蜀で立派にやっている。遠大な志を持っているのだ」と喜び、それから後は、しっかり肝を据えて、魏の人々からどんなことを言われようとも気に病むことはありませんでした。孔明はこの話を伝え聞き、「賢なるかな、姜母!」と称えたといいます。
後半部の姜維と母とのやりとりには、また別の伝承があり、こちらは文字でやりとりしています。以下、その紹介です。
安徽省毫県の伝承
姜維の母は、息子が蜀に仕えたことを喜びましたが、子を思う気持ちは強く、気掛かりで仕方ありません。そこで彼に手紙を送ることにし、「隴山の『当帰』を送ってほしい」と書きました。一見なんの変哲もない文章ですが、これを受け取った姜維は母の意図を悟り、返事を書きました。
「良田万頃なるも、尤も一畝を愛す。但だ『遠志』有らば、『当帰』に在らず」
これを見た母親は、息子の遠大な志を知って安心し、再び手紙を書きました(「畝」と「母」は発音が同じで、畝に母をかけているのだそうです)。
「児に遠志あらば、母、心に掛くるなし。報国、上と為さば、乃ち是れ母を知るなり」
母からの返書を受け取った姜維は、これを見て安心し、それからはひたすら軍務に励みました(「母を知る」で「知母」と書き、これもまた薬草の名前だそうです)。このことを知った孔明は密かに天水に人を遣わし、姜維の母を迎えに行きます。が、母親は、「伯約が丞相にお仕えしていれば、私はそれで安心です」と答え、家を離れようとしませんでした。使者は仕方なく孔明に復命したところ、孔明は「賢なるかな、姜母」(このセリフは、もう1つの伝承と一緒ですね・笑)と感心したのでした。
それからというもの、隴山の人々は当帰を、天水の人々は遠志を植え、知母も常用薬となったのでした。
これは裴松之が正史の注として孫盛の「雑記」から引いている話です(蜀志・姜維伝)。この薬草問答は、早くから民間に伝わっていたそうなので、伝承を孫盛が記したものと思われます。
余談
薬草で謎かけをする話は広く使われているようで、三国志の時代から400~500年後の隋~唐時代のお話「隋唐演義」にも、当帰が登場します。唐の玄宗(楊貴妃とのお話で有名な皇帝ですね)に呼ばれた仙人の羅公遠が、呼び出しに応じずに、代わりに当帰とわずか10文字の手紙を使者に渡します。
「『処安』莫忘危、謹上蜀『当帰』」
この謎かけ文を、玄宗は理解できなかったのですが、これは、--安禄山の反乱、都を追われた玄宗の入蜀とその後の帰還--を指していたそうです(隋唐演義・第85回)。
さらに余談:四川省剣閣剣門郷に伝わるお話の方では、母1人子1人の姜維は、10歳を過ぎた頃には牛飼いに雇われていたそうです。「いつか大きいことをやってやる」という思いを持ちながら、母親をことのほかいたわり、武芸武略にも腕を磨いてきたんだとか。
※参考書籍
「三国志外伝-民間説話にみる素顔の英雄たち」徳間書店、「正史三国志・蜀書」筑摩書房、「隋唐演義」講談社